「あっ!いたたたた…」
朝の5時半、新聞を取りに玄関へ行こうとしたHさんは、じゅうたんの縁に躓いて転倒してしまいました。
一人暮らしのHさん。
手の届く所に電話はなく、Hさんはその場でうずくまって、足の痛みに耐えるしかありませんでした。
ピンポーン
あれ?
いつもなら玄関先まで出て来てくれているHさんの姿が見えない。
「Hさーん!」
おかしい。
「Hさーん!入りますよー!」
週3日通っているデイサービスからお迎えに来てくれたヘルパーさんが、異変に気付いて家の中まで入って来てくれたので、救急車を呼んでもらえました。
転倒から5時間後のことでした。
「デイサービスの日で良かった!下手したら丸1日以上このままだったね…」
もともと骨粗鬆症だったHさんは、右の大腿骨を骨折していました。
翌日に手術をし、そのまた翌日からリハビリが始まりました。
また歩けるようになるためには、早期のリハビリが欠かせません。
Hさんは82歳と高齢で、術後の痛みもあったため、1日20分ほどのリハビリを行っていました。
最初の数日はHさんもリハビリを頑張っていたんですが、段々と意欲を失ってしまい、歩けるどころかほぼ寝たきりとなり、食欲もなくなりました。
それもそのはず、Hさんはリハビリを行う1日20分以外はずーっと、ベッドに横になっていたからです。
それが原因が定かではないですが、いつの間にか、認知症まで発症してしまいました。
高齢者が入院すると、認知症を発症したり、認知症が悪化することは、本当によくあることです。
Hさんの認知症は日に日に悪化し、あまり口から栄養を摂れなくなっていたので、栄養補給のために点滴をしていました。
でも、何故点滴をしているのかを理解できないHさんは、点滴の針を勝手に引き抜いてしまうので、それを阻止するために両手を拘束するしかありませんでした。
Hさんには娘さんがいました。
娘さんはヘルニアを患っていたんですが、Hさんが少しでも口から食べられるようにと、Hさんが好きなプリンやヨーグルトなどを持って、毎日病院に通っていました。
そんな娘の顔を見て、Hさんは怪訝そうに「どちらさまですか?」と言い出すほど、認知症は悪化していました。
入院から3か月後、Hさんは転院することになりました。
Hさんは転院先への移動する間中、びっくりするくらいの大声で「イヤだーー!助けてーー!殺されるーー!」と叫び続けていました。
転院に付き添っていた娘さんは、こんな状態では転院先に拒否されてしまうかも知れない。そんなことになったらどうしよう…何とか受け入れてもらわないと、私一人でこの母の面倒は見れない…
Hさんの娘さんは、不安に押しつぶされそうになっていました。
転院先に着き、Hさんの娘さんは担当の医師に懇願しました。
こんなわがままな母ですが、どうかお願いします、と。
すると担当医はあっさりと「大丈夫ですよ。私たちがお看取りまでさせていただきますから。」「お母さんは少し興奮されているようです。血圧が上がり過ぎてはいけませんので、落ち着くお薬を注射しますね」と言い、Hさんに注射をしました。
するとHさん落ち着きを取り戻し、眠りにつきました。
その日は安心して帰宅した娘さんでしたが、その後面会に行くたびに、Hさんの精気がなくなっていることに気付きました。
看護師さんに聞くと、しょっちゅう大きな声で叫ばれると他の人に迷惑が掛かるから、鎮静剤を注射しているとのことでした。
Hさんにとっては良くないことだと感じましたが、この病院のお世話にならないと、自分ではとても面倒を見れないので、病院の方針に従うしかありませんでした。
それから3か月が経ち、かなり衰弱していたHさんは、誤嚥性肺炎(ごえんせい)を起こしてしまい、あっけなく亡くなってしまいました。